「セックスして一人前」という風潮にモヤモヤする私の話
「童貞卒業おめでとう」
「まだ処女なの?」
皆さんは、このような言葉を見聞きしたことはありますか?
実際に言った/言われた経験がなくても、マンガやアニメ、ドラマなどで一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。
セックスの経験がないと、「処女」というような言葉でその「純粋さ」をもてはやされたり、「童貞」のような言葉で、未熟さや非モテの象徴のようにイジりの対象にされてしまうことが多いように感じます。
「セックスをするかしないか」は、それぞれの親密な関係におけるプライベートな問題であり、個々人の身体をどうするかは本人の判断が尊重されるべきです。
それなのに、なぜ外野が「まだ(挿入込みの)セックスをしないのか」というようなプレッシャーをかけることが、当たり前になってしまっているのでしょうか?
今回は、フィクトセクシュアルの主人公が登場するマンガを通じて、このような「セックスして一人前」という風潮に、疑問を投げかけてみたいと思います。
フィクトセクシュアルって何?
フィクトセクシュアル(fictosexual)とは、架空のキャラクターに性的な惹かれを経験するセクシュアリティのことです。
フィクトセクシュアルを自認する人々の中には、「架空のキャラクターにも現実の個人にも性的魅力を感じる場合がある」人もいれば、「現実の個人に対してはまったく性的魅力を感じない」という人もいます。
そのため、フィクトセクシュアルは広義のAセクシュアルに含められることもあります。また、架空のキャラクターに恋愛的な魅力を感じるセクシュアリティは、「フィクトロマンティック」と呼ばれます。
セックスしたら一人前って本当?
セックスで人生が変わったと感じる人もいるでしょう。セックスそれ自体に強い喜びを感じたり、誰かとのセックスを通じて学びを得る人もいるはずです。
しかし、それが唯一の幸せへの道であると断定したり、「経験のない人は未熟だ」と見なしてしまうのは、早計な判断のように思えます。
そもそも、「処女」や「童貞」の話をするとき、そこには「セックス=挿入すること」という考えが前提とされてしまっていますが、セックスに正解の型なんてものはありませんし、挿入はさまざまなセックスのやり方のうちのひとつにすぎません。冒頭にも書いた通り、自分の身体をどうするかは本人が決めることですし、どのような親密関係を築くのか(あるいは築かないのか)というのは、第三者が口を出すべきではないですよね。
ここで、ひとつ例え話をしたいと思います。
Aさんは、付き合っているパートナーとお揃いのタトゥーを入れました。
ずっとずっと憧れていたタトゥーをついに彫り終え、精神的にも身体的にも大人になれたと感じたAさん。事前にパートナーとデザインの好みを話し合い、一緒に試行錯誤をする中で、お互いの知らなかった部分を知ることができ、絆も深まりました。
でも、Aさんがもし、「カップルタトゥーを入れたことのない人は人間として未成熟だ」「カップルタトゥーを入れていないような関係は、恋愛ごっこにすぎない」と言っていたら、皆さんはどう感じますか?
「Aさんの基準を勝手に押し付けられた」と、違和感を感じるのではないでしょうか。
Aさんがパートナーとお揃いのタトゥーを彫ることに感じる幸せは、誰にも否定されるべきではありません。
しかし、Aさんがそう感じたからといって、すべての人がタトゥーを入れたいとは限りませんよね。また、カップルでお揃いにするとなれば相手の同意も欠かせないでしょう。
今の日本社会では、「カップルタトゥーを入れることが当たり前」という考え方が浸透していないので、誰かの成熟度や関係性の質をタトゥーの有無で他者がジャッジすることのおかしさに簡単に気づくことができたかと思います。
でも、セックスについてとなると、なかなかそうはいかないようです。
マンガで描かれていたように、「 “普通”の人なら(3次元の)誰かに性的に惹かれるのは当たり前だ」とされている社会だからこそ、セックス(膣への挿入)には過剰に意味が置かれ、価値観の押し付けがまかり通ってしまっているのです。
このような「 “普通”の人なら他者に対して性的に惹かれる」という考えのもと、性的な行為への参加を強制するような社会のあり方は、Aセクシュアルの人々のコミュニティによる運動や、Aセクシュアルに関する研究を通じて批判されてきました。
次のページでは、そのような活動の中で生まれた「セクシュアルノーマティビティ」という概念を紹介します。
「セクシュアルノーマティビティ」って何?
「セクシュアルノーマティビィティ(sexualnormativity)」とは、性的な惹かれを経験することを「人としての成熟」や「健康」と結びつけ、カップル関係や愛、親密さにおいて、他のどんな関係や接触よりもセックスが重要なものであるとみなす規範を指す言葉です。
この概念は、異性愛が「普通」で「自然」なことであり、同性愛は「異常」で「逸脱」した「不自然」なあり方であるとみなす規範を意味する、「ヘテロノーマティビティ(heteronormativity)」をもじってつくられました。
ヘテロノーマティビティという概念が「誰もが異性愛者であるとは限らないのに、異性愛が前提とされてきた」ことを気づかせてくれるように、セクシュアルノーマティビティという概念を通して日々の会話を見直すと「誰もが性的な惹かれを経験するとは限らないのに、性的な惹かれを感じることが前提とされ、セックスに参加することが強制されてきた」ということに気づくことができるのです。
セクシュアルノーマティブな社会で生きるAセクシュアルの人々は、日々さまざまな場面で「普通ではない存在」として扱われることを経験しています。
たとえば、自分のセクシュアリティに満足しているのにもかかわらず、他者から「どこかがおかしいのではないか」と病理のレッテルを貼られたり、「もしかしたらいい相手に出逢えていないだけかも」と、自身の認識を疑うように仕向けられたり。時には「(誰もが抱いて“当然”の)性欲を抑圧している」と非難されることもあります。
このように、セクシュアルノーマティビティは、Aセクシュアルの人をはじめ、性行為を実践しない人や、性的な事柄に無関心な人、世間一般で想定されるのとは異なる他者との関わりを持つ人を「不自然な存在」として扱うような雰囲気をつくり出し、排除してきたのです。
そして、最近は少しずつ、そのような社会のあり方が問い直されるようになってきました。
「性的な惹かれを経験するのは当たり前じゃない」ということを忘れずに
性への興味や、セックスへの欲望を抱くことにネガティブなイメージが付きまとい、子どものための包括的な性教育が「寝た子を起こすな」とバッシングされるような国では、「欲望を抑圧するな」と主張することには大きな意味があります。
また、(生身の)異性間以外の関係の中で生まれる性的な欲望に押し付けられるスティグマに抗うために「私たちが抱く性欲は誰にも否定できない」と声をあげることは、異性愛を中心に回る世の中を少しずつでも変えていくためにも、欠かすことのできないアクションのひとつです。
ただ、そのような運動の過程で「性的欲望を抱くのは人間として当たり前のこと」というような言葉が飛び出したとき、存在を否定されてしまう人々がいるということを忘れないようにしたいです。
「異性愛を前提としない」という意識は、以前と比べ、かなり浸透してきたように思います。
しかし、「誰もが必ず『誰かとセックスしたい』という欲望を経験する」という思い込みと、「性的な経験が人を成熟させる」というような考え方は、依然として根深く残っています。
マンガでも書かれていたように「主流」とされる生き方に違和感を感じない人も、その生き方は尊重されるべきです。
ただ、その「主流」に沿った価値観を持つ場合にも、それを無意識に誰かに押し付けていないかどうか振り返ってみることが大切なのではないでしょうか。
(文章:𠮷元咲)