私がモヤモヤしている「女性同士のセクハラ」

近年、「セクハラ」という言葉が浸透したことで、これまで「ただの冗談」や「悪意のない言葉」として片づけられてきた性加害が可視化されるようになりました。

セクハラ防止の研修などを実施する企業も増え、セクハラをしないよう気を付ける雰囲気や、セクハラを受けた人が声を上げやすい土壌が段々と整っていっているように感じます。

ところで、皆さんは「セクハラ」や「性暴力」と聞いて、どのような加害者・被害者を思い浮かべますか?

もしかしたら、「男性から女性に行われるもの」というイメージを持っている人が多いかもしれません。たしかに、セクハラや性暴力の加害者は統計上、男性である割合が高いです。

しかし、

「男性しか加害者にならない」
「女性しか被害者にならない」

というわけではありません。

今回は、このようなセクハラにまつわる思い込みについて、詳しくみていきます。

そもそもセクハラって?

セクハラとは、「セクシュアルハラスメント(sexual harassment)」の略であり、他者を動揺させたり、不快にさせたり、恐怖心や屈辱感を与えたりするような性的な言動のことを指す言葉です。

同意せざるを得ないような関係性を利用して性的接触を要求したり、目につく場所にわざと性的な画像を掲示するなど、相手の意志に反する性的なコミュニケーションは、幅広くセクハラに該当します。

つまりセクハラは、いつでもどこでも、性別や関係に関わらず行われてしまう可能性のある暴力なのです。

声の上げづらさを生み出すさまざまな要因

会社内の上下関係においてセクハラが行われることで、被害者が声を上げづらくなる構造については、徐々に認知が広まってきたように思います。

「気が進まないけど、場の空気を悪くしたくないし…」

「本当は嫌だけど、この人に恥をかかせるわけにはいかないし…」

というように、直接無理強いをされなくても、上司からの要求や接触を受け入れざるを得ない状況が簡単に作り出されるため、会社におけるセクハラは深刻な問題として、その対策が急がれてきました。

しかしセクハラは、会社の中だけで、ましてや、上司と部下の間だけで起こるものではありません。

むしろ、「この関係性でセクハラは起こり得ないだろう」という思い込みによって、被害者自身も被害に気づきづらかったり、声を上げても周囲の理解を得ることが難しく、声を上げづらい状況がまだまだあるのです。

①同性からの加害の場合

まず、マンガ内で紹介されていたような同性からのセクハラは、加害として認識されづらい状況にあります。

身体についての不必要なコメントや、同意のないボディタッチは、たとえ同性間であってももちろん重大なセクハラにあたります。

しかし、同性間、特に女性どうしの距離の近さは、日本社会において「普通」のこととして認められているために、加害と親しみの表現の区別が曖昧にされる傾向にあるのです。

②家族からの加害の場合

同様に、家族や親戚からのセクハラも、「親しさの表れ」としてスルーされてしまいがちです。

親戚の見ている前での授乳の強要や、月経や妊娠についての細かな質問、「娘が1人いるなら、あとは息子を産めばいいね」なんて言葉も、かつては聞き流されていたかもしれませんが、れっきとしたセクハラですよね。

このような親しい(とされる)関係の中で行われるセクハラは、加害を加害として認識されにくく、「今後も付き合いがあるため角を立てたくない」というプレッシャーが被害者の口を封じてしまうのです。

③男性や年配者が被害に遭った場合

親しい関係の中での加害が明らかになりづらいことに加え、世間から「被害者になるなんてあり得ない」と思われているような属性や立場の人がセクハラを受けた場合も、その被害はなかったことにされてしまいがちです。

男性がセクハラの被害に遭ったことを指して「逆セクハラ」という言葉がしばしば用いられていることからもわかるように、「セクハラは普通、男性から女性に対して行われるものだ」という考え方は世間一般に広く浸透しているようです。

しかし冒頭に述べたように、セクハラは性別関係なく加害者にも被害者にもなりうるものです。

上記のような思い込みは、ただでさえ「男が被害に遭うなんて情けない」というような世間の雰囲気のせいで声を上げることが難しい男性被害者にとって、助けを求めやすい環境を作ることを妨げてしまいます。

また、「セクハラは大抵目上の人が目下の人に対して行うものだ」という思い込みも根深いですが、その逆も起こりうることに気をつける必要があるでしょう。たとえば大学においては、教授からの学生に対する深刻なセクハラが徐々に明らかになっている一方で、女性教員を性的にばかにするような言葉や卑猥な文章をコメントシートに書いて提出する学生がいることが報告されています。

ここまで見てきたように、セクハラについては、誰もが加害者/被害者になりうることを理解しておく必要があります。

物事の全体像を捉えようとするとき、私たちはどうしても数の多さに信頼を置き、希少な事例は例外として理解してしまいがちです。

もちろん、そうやって大まかな傾向を掴むことで、セクハラが起こりやすい関係性などに焦点を当て、効果的な対策を練ることができます。

ただし、被害に遭った人たちは単なる数字ではなく、その人数の分だけそれぞれの体験があることを忘れてはいけないと思います。

「この関係で性暴力は起こらないだろう」「この人が加害者/被害者になるはずがない」というような思い込みをなくしていけば、被害にあったとき、より多くの人が「これはセクハラだ」と気付きやすくなりますし、周りからのサポートを必要としている人が取りこぼされることは少なくなるのではないでしょうか。

さいごに

セクハラについての意識が広がってきたことで、「セクハラ」とされるような行為を避ける人も増えてきました。

しかし、そういった場面で不満のようにこぼれ落ちる言葉を聞いたことのある方も多いかもしれません。

「何を言っても叩かれる時代になってしまった」
「なんでも差別やセクハラだと言われる」
「何も言えない時代になってしまった」 などなど…

セクハラを指摘された人たちは、悪意がなかったのに、不当に非難されているのだと感じてしまうことが多いようです。これは、マイクロアグレッションについても同じことが言えます。

読み込み中...

「『とにかく誰かを叩きたい人たち』が、これまでは当たり前だった言動に『セクハラ』や『マイクロアグレッション』のようなラベルを貼り付け、自分の正義を振りかざして気持ち良くなるためにSNSをパトロールしているのだ」というような見方をすれば、加害の深刻さから目を逸らし続けることができます。

でもセクハラやマイクロアグレッションは「人を叩くためのでっちあげ」でも、「最近はじまったもの」でもなく、名前がついていなかっただけで、常にこの社会に存在してきました。

「前はこういうことをしても何も言われなかったのに」「むしろみんな楽しんでいたじゃないか」というような言葉が聞かれますが、実際は、それらに対してずっと声を上げられなかった/声を上げても取り合ってもらえなかった人たちがいたのではないでしょうか。

多くの人が「何を言っても叩かれる」と感じてしまうのは、これまであまりにも公然と、他者の主体性や人格、権利を踏みにじるような言動が「普通」として垂れ流されていた、暗黙のうちにスルーされていたということの表れとも言えます。

そのような流れを変えるために、少しでも多くの人が、なぜ「悪気なく言った言葉」を理由に非難されてしまうのかを、立ち止まって考えてみることができるようになればよいなと思います。

(文章:𠮷元咲)