クィア・スタディーズが問い直す境界線 – 早稲田大学 ジェンダー研究所森山至貴先生に聞いた、クィアの意味

皆さんは、クィアという言葉を聞いたことがありますか?

もともとクィアとは、「風変わりな・奇妙な」という意味の英語。そして、この言葉はLGBTQ+に対しての蔑称として使われてきた歴史があります。

一方でここ数年、クィアという言葉がまた違った意味合いで使われる場面を目にした方も多いのではないでしょうか。たとえばNetFlixの「クィア・アイ」。おしゃれなゲイ男性5人が、依頼人の変身を手助けするリアリティ番組です。

大学などでも、ジェンダースタディーズやフェミニズムと並んで授業のテーマとなることも増え、より一般的な言葉となったのではないかと思います。SNSを見渡しても、クィアという言葉をプロフィール欄に記す人を見かけることも増えてきましたよね。

とはいえLGBTQ+という言葉が社会的に広く認知されたことに比べると、まだまだその意味を知る人は少ないこのクィアという言葉。

そこで今回、早稲田大学の森山至貴先生の研究室を訪ね、クィアという言葉やクィア・スタディーズが経てきた歴史と意味を伺ってきました。

(文章:伊藤まり

伊藤:先日NetFlixの「クィア・アイ」日本編が公開されました。これはゲイ男性5人が依頼人のライフスタイルを変えるための手助けをするリアリティ番組ですが、そもそもこの”クィア”という言葉には、ネガティブな意味があるとも聞きました。

森山:はい。クィアという言葉は、もともとトランス女性やゲイ男性に対するかなり強い侮蔑語として使われてきました。あえて訳すなら、「変態」でしょうか。

伊藤:変態…。日本語で言うところの「おかま」や「ホモ」にも近いでしょうか?

森山:そうですね。でも最近は、当事者の人が「自分はクィアだ」と意図して自称することも増えてきたように思います。

伊藤:侮蔑語ではない意味で使われるようになったということですか?

森山:侮蔑語のニュアンスがあることを前提に、それをあえて自称として用いることで、マジョリティ側から一方的にネガティブな言葉で呼ばれることに抵抗しているのです。自分たちの存在を意味づけるのはマジョリティ側ではなくて、自分たち自身なのだ、と。

伊藤:それって、ウィメンズ・マーチのときのプッシーハットと似てますよね。女性蔑視の言葉として使われてきた「プッシー」という言葉を女性自身が使うことでエンパワーの象徴になる、というか。

プッシーハットとは?
子猫をモチーフにした手編みのピンク色のニット帽のこと。英語で女性器をさすPussyと、女性を軽蔑的に「子猫ちゃん」と呼ぶときのPussy Catがかけられている。2017年トランプ大統領就任への抗議デモ、ウィメンズマーチで多くの参加者がプッシーハットを被ってデモを行った。これは彼の「有名になれば好きに女のプッシーを掴める」という女性蔑視発言への抗議のモチーフだった。

森山:そうですね!意味づける主体としての権利を取り返そう、という動きはマイノリティ運動の中でよく見られます。クィア・スタディーズ自体も、理論の多くをフェミニズムから受け継いでいますから、そういう共通点があるのも当然だと思います。

伊藤:「クィア・アイ」のクィアは、差別への抵抗を経て、ポジティブな意味が込められているんですね。

森山:この場合のクィアは、特にゲイ男性という意味で使われていますよね。登場するのは、5人のゲイ男性ですし。でもクィアは、ゲイ男性だけに限らないんですよ。

伊藤:あ、そうなんですか?

森山:クィアという言葉はゲイ男性を指す場合もあれば、セクシュアルマイノリティ全般を指す場合もあります。”LGBT”以外の性のあり方に光を当てる時に使われる場合もありますね。

伊藤:LGBTQ+といったときの、Q+の部分でしょうか?

森山:そうです。”LGBT”はレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの頭文字をとった言葉ですが、性のあり方は他にもたくさんあることがずいぶん前から知られてきています。たとえば、性自認が流動的である「ジェンダーフルイド」、恋愛感情を抱かない「アロマンティック」などなど。クィアとは、”LGBT”というくくりでは取りこぼされてしまう性のあり方も含めて光を当てていこう、という言葉でもあるのです。

伊藤:なるほど、はっきりと一つの意味に定まっている訳ではないんだ。クィアという言葉自体が”普通”とされる性のあり方に一石を投じるような意味を含んでいるのですね。

森山:その都度の必要性に応じて伸び縮みしながら使われています。クィア・スタディーズという学問は、そういった”普通”と”異常”の境界線を問い直したり、そうやって〈普通/異常〉に分ける構図自体を批判する目的を持っています。

伊藤:たしかに、”普通”という規範がプレッシャーとなることがよくありますよね。その規範に当てはまらない人は「普通じゃない、異常だ」ということで排除されたり、生きづらさを生んでしまいます。

森山:はい。今の社会では「シスジェンダーで異性愛者の人」が普通とされています。でもそれ以外にも、たとえば「結婚をする」だとか、「子どもを産む」だとか、そういったこともこの社会では「普通」として機能しています。

森山:これって実は、学生にとってもすごく身近なことなんですよ。「恋愛しなきゃいけない!」「恋人がいなきゃおかしい!」という空気って、すごく根強いじゃないですか。それで「恋愛をしない自分っておかしいのかも」と悩んでいる学生も多いんです。

伊藤:たしかに、恋愛しなければいけないプレッシャーってありましたね。

森山:AロマンティックやAセクシュアルの学生ももちろんそうですが、「今は恋愛する気がない」という人や「結婚はしたくない」という人にとっても強いプレッシャーになります。だから「”LGBT”以外にもセクシュアリティは多様にある」ということを伝えながら、”普通”の枠組みを捉え直していくことが大事なんです。

伊藤:いわゆる”LGBT”の外側にも、クィア・スタディーズを必要としている人は多いんですね。〈普通/異常〉の枠組みを問う運動は、昔からありましたか?

森山:あった、と言いたいところですが、不十分な面も多かったと言わざるをえません。たとえば、1950年代ごろまでのアメリカにおける同性愛者による社会運動は、「ゲイの人も”普通の人”と同じなんだよ」というニュアンスが強く、同化主義が勧められていたんです。

伊藤:「マジョリティに受け入れられる、性的指向以外は”普通”のマイノリティの運動」という側面があったということでしょうか?

森山:はい。それが変わってくるのは1969年に起きたストーンウォールの反乱などに代表されるいくつかの事件以降ですね。いわゆるゲイ解放運動と呼ばれるムーブメントです。「ゲイやレズビアンである」というアイデンティティを大切にした運動で、”普通=異性愛”の価値観に同化することは目指さなくなりました。

伊藤:トランスジェンダーの運動の中でも、〈普通/異常〉の境界線の問い直しはありましたか?

森山:1950年代に性別適合手術を受けた人々たちは、「自分たちは手術したら”普通”の異性愛者になれる」というようなリアリティを持っていました。今でも、トランスジェンダーの人たちに対して「もともと間違った身体で生まれてきたけど、手術を受けて”普通”に戻ったから大丈夫」みたいな受け取り方はありますよね。

森山:当然、当事者のなかでもそう感じている人はいます。「かつて性自認とは違う身体で生きてきたから、その過去についてわざわざ言及して欲しくない」と思う人もいますよね。他方で、過去も含めて自分のアイデンティティとして大切にするトランスジェンダーの当事者の方もいます。何れにしても尊重されるべきは当事者の意思であって、周りが勝手に「普通に戻った」と認定するのはどちらの人に対しても暴力的な気がしますよね。

伊藤:たしかにそうですね。普通だと決めつけている主体がいつもマジョリティ側に有る限りは、判断される側が常にいる、ということ。〈普通/異常〉の関係性を解体していく必要があるのですね。

森山:はい。クィア・スタディーズにおいて、〈普通/異常〉などの言葉で語られることをどれだけ疑えるか、ということがとても大切になります。

伊藤:SNS上で起きているトランス女性を排除しようという動きのなかでも、「普通の女性かどうかを他の誰かが勝手に審査して決める」ということが起きてしまっていますよね。

森山:”普通”という言葉に寄っかかってしまった瞬間に誰かを排除してしまうかもしれない、ということだと思います。そこは常に意識をしなくてはいけない。「こういう条件を持っていれば女性である」という規範に対して異議を唱えてきたのがフェミニズムですからね。

私たちの生きる社会には、たくさんの”普通”で溢れています。「普通は眠る前に歯を磨く」といった些細なものから、ある人の生き方を否定してしまうようなものまでそのスケールは様々です。

たとえば、「生まれたときに割り当てられた性別で生き、異性と恋愛をし結婚をする。さらに性行為を行い子どもを産み育てる」という”普通”。

このありふれたライフコースの隙間にさえも、さらにたくさんの”普通”が潜り込んできますよね。

「女の子ならばおしとやかに」
「20歳になれば、恋人の1人や2人いるだろう」
「いつかは誰もが結婚して家庭を築く」
「子どもは何人以上産む方が幸せ」

その1つひとつから漏れ出る誰かを「普通じゃない=異常だ」と判断する社会。

では一体、その”普通”と”普通でないもの”の境界線はどこなのでしょう。それを決めているのは誰なのでしょう。そこには、決める力を持つ人と、その力を奪われている人がいるのではないでしょうか。

誰かの選択肢を奪い、のびのびと生きることを阻害する様々な「こうあるべき」を越えようとするとき、その力関係へと意識を向けること。その大切さを、クィアという言葉の意味から知ることができました。

さらにクィア・スタディーズについて知りたい方へのオススメはこちら。

森山至貴『LGBTを読みとく:クィア・スタディーズ入門』、筑摩書房、2017年。

パレットークの書籍『マンガでわかるLGBTQ+』(講談社)では、こちらの記事でインタビューにご協力いただいた森山至貴先生より解説をお寄せいただいてます。”LGBT”だけじゃない、様々な性のあり方についても、マンガや資料でわかりやすく解説しています。