タイトル「離婚した友達と話していたら...」 友達同士のタクとコウキ、クレープを食べながら街をブラブラしている
友達同士のタクとコウキ、クレープを食べながら街をブラブラしている コウキ そういえばさ、先月離婚したんだよね、うち タク お、おお、そうだったのか… コウキ そーそー、まだ一緒に住んでんだけどね、いいタイミングで引っ越そうと思って
コウキ 大変だったけど、お互いに冷静に話して決めてよかったと思ってる タク なかなかわかりあえないっていつも言ってたもんね… いろいろと大変だと思うけどお疲れ様、気持ち的には大丈夫? コウキ うん、そこは大丈夫、ありがと …でも、ほんとオススメしないよ、結婚は! タク え?
コウキ タクはユウタくんと結婚できる日が来たらって言ってたけど…結婚なんてそんないいもんじゃないからさ だから同性婚できなくても、そんなにつらい気持ちになるようなことじゃないっていうか… 少し困っているタク
タク …う〜ん、いや、それは違うと思う コウキ へ? タク 結婚するか、しないかの選択肢がある中で、選べるっていうのがコウキでしょ? 選択肢がある上でしないのを選ぶのと、最初から「できない」しか選択肢がないっていうのは違うと思うんだよ コウキ あっ…!
タク 俺だって「結婚なんてどうしようもないよ!まじでオススメしない!」とか言ってみたいけどさ〜 コウキ …たしかに、すごい違いだ… タクが現状で選べないことを大したことじゃないって言ってるように聞こえるよね… タク うん、コウキにその意図がないのはわかるけどね
コウキ ごめん、まじで教えてくれてありがとう タク うん、コウキもお疲れ様 相手が仲のいい友達だから言えたけど、モヤモヤするようなことを言われて、持ち帰ってしまうことも多い 誰にでもこんな風に説明できるわけじゃないし「どうして権利を奪われている俺がわざわざ教えてあげなきゃいけないの?」と思うこともある でもコウキは、俺がカミングアウトしたときに「俺がわかってないこと言ったら、もし言えそうなら教えて」と言ってくれた だから俺たちは、今でも友達なんだと思う

【マンガで解説】「離婚した友達と話していたら…」から考える、マジョリティ性との向き合い方

だれかの発言にモヤモヤしても、それが親しい友人となると、なかなか伝えづらいものです。みなさんにも、そんな経験はありませんか?

今回紹介するのは、離婚した友人から「結婚ってそんなにいいものじゃないよ」と言われたゲイの男性のエピソードです。

「法律婚が選択肢にあるうえで選ばないこと」と、「そもそも選べないこと」はまったく別の話。この記事では、そうした立場の違いを出発点に、マジョリティ性や「特権」について、一緒に考えていきたいと思います。

「共感」や「励まし」のつもりが…

マンガの中でコウキは、ゲイであるタクに対して以下のような発言をしてしまいました。

「タクはユウタくんと結婚できる日が来たらって言ってたけど…結婚なんてそんないいもんじゃないからさ」
「だから同性婚できなくても、そんなにつらい気持ちになるようなことじゃないっていうか…」

この言葉をかけられたタクは困惑します。

もしかするとコウキは離婚を通じて「結婚=人生の幸せなゴールとは限らない」ということに気づき、タクに寄り添うつもりでこう言ったのかもしれません。

しかしタクも指摘する通り、コウキの言葉は「法律婚という選択肢がある人」と「そもそも選択肢がない人」の立場の違いを見落としてしまっていますよね。

現在日本では、戸籍上同性同士の場合法律婚ができません。自治体レベルで二人の関係を認める「パートナーシップ制度」が全国規模で広がりつつあるものの、制度自体に法的な効力はないというのが現状です。

これまで過ごしてきた時間やこれから共に思い描く生活があっても、同性同士というだけで関係が法的に保証されない。

そんな「結婚したくてもできない」という状況のタクに対して、結婚を選べる立場から「(結婚できなくても)つらい気持ちになるようなことじゃない」という言葉をかけることは、たとえ悪気がなくても、相手の現状や気持ちを軽んじることにつながってしまうこともあるのです。

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「異性愛者」というマジョリティ性

このように異性愛者であるコウキが「法律婚ができる」という選択肢を持っていることは、個人が持つマジョリティ性によって得られる「特権」のひとつの例と言えます。

「特権」とは、マジョリティとされる社会集団に属していることで努力せずに得られる優位性のこと。「努力せずに得られる」という点が重要で、「個人が何を成し遂げたのか」は関係ありません。

たとえば日本社会で「異性愛者」であることによって得られる特権には、次のようなものがあります。

法的・制度的な面
・法律婚が可能(戸籍に記載され、法的な配偶者として認められる)
・配偶者控除・扶養控除などの税制優遇を受けられる
・医療や介護の場面で「家族」として扱われ、意思決定に関与できる
社会的・文化的な面
・職場や学校で恋人・配偶者の話を「普通に」共有できる
・教育・進路・就職などで、自分の性的指向が不利に働くことが少ない
安全・精神的な面
・社会の中で存在を前提とされているため、カミングアウトする必要がない
・性的指向を理由に差別や暴力を受けるリスクが非常に低い
などなど…

上記の内容は、本来であればセクシュアリティにかかわらずすべての人に認められるべき人権ではないでしょうか。

しかし不平等な法制度や差別的な言説によって、現実には「異性愛者」という特定の人々だけがアクセスできる「特権」になってしまっているのです。

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まずは気づくことから

自分の持つマジョリティ性やそれによって得られる「特権」に無自覚なままでいると、コウキのように相手の気持ちや事情を軽く扱ってしまう可能性があります。

しかし、「マジョリティであることは悪いことだ」というわけではありません。

大切なのは、自分が持つマジョリティ性を自覚し、どのように行動するか。差別的な構造を変えていくためには、その社会で比較的発言力のある人、つまりはマジョリティ性を持つ人の行動が重要になってきます。

まずは日頃から、自分の持つマジョリティ性に少しずつでも目を向けていくことが、変化への第一歩になるはずです。その過程でもし相手を傷つけることを言ってしまったら、コウキのように自分の言動に問題があったと認め、素直に謝ることができるといいですね。

また、「異性愛者である」というように何らかのマジョリティ性を持っているからといって、その人が「一切困らずに生きていける」というわけではありません。

あるマジョリティ性を持つ人が同時に他のマイノリティ性をあわせ持つ場合も多くありますし、離婚を経験したコウキのように、「法律婚ができる」ことの先で困難に直面する人もいます。

「強者/弱者」「加害者/被害者」のように単純な二文法的に捉えるのではなく、「自分に見えていない苦しさが、目の前の誰かにあるかもしれない」と考え続けることも重要なのではないでしょうか。

さいごに

今回の記事では、タクとコウキのエピソードを通じて、日本社会におけるマジョリティ性や「特権」について考えてきました。

誰かの立場に想像をめぐらせながら、自分の言動を見つめなおすこと。その小さな積み重ねが、より多くの人が生きやすい社会につながっていくはずです。

5月17日は国際反ホモフォビア・バイフォビア・インターセックス差別・トランスフォビアの日。頭文字をとってIDAHOBIT、また日本語では「多様な性にYESの日」とも呼ばれ、さまざまな性のあり方を持つすべての人々が経験する暴力や差別への認識を広め、関心を高めるための日とされています。

この「多様な性にYESの日(IDAHOBIT)」に向け、パレットークでは2週間にわたり、マジョリティ性や「特権」について考えるコンテンツを発信していきます。

みなさんもこの機会に、持っているかもしれないマジョリティ性について、改めて考えてみませんか?