判子づくりで感じた家父長制の話。
母親と判子を作りに行った主人公は、「結婚したら苗字を変えるのは女性」「女性は家庭に入り家族を支えるもの」という価値観に直面し、ショックを受けます。夫婦別姓が話題になっている昨今において、日常にある家父長制の名残をあらためて考えさせられるエピソードです。
これは先日、実印を作りに母と印鑑屋さんに行ったときのことです。デパートの中にある印鑑屋に向かう主人公と母。印鑑屋にて、完成品の見本を見ている主人公、なにかに気づく。
主人公「女性の実印が下の名前ですけど、実印って苗字で作るものじゃないんですか?」店員「はい、女性は下の名前で作るものなんですよ。結婚したら苗字が変わりますからね〜」それを聞いて驚く主人公。
スタッフ「このデザインなんかは女性におすすめですよ!男性ものよりも一回りサイズが小さくて、『家庭に入って家族を支える』という意味が込められているんです」主人公、それを聞いてさらに驚く。注釈、このメッセージは、ここのお店オリジナルのものらしいです。主人公「お母さん、私これで作りたい!一番大きくてフルネームはいるやつ!」と一番大きい判子を指差す。それにはいはいと苦笑いで返す母。
数日後…。無事届いた判子を見て満足げな主人公。「こういう小さなところにも、『女性は家庭に入って男性を支えるべき』っていう家父長制の名残があるんだなあ…」注釈、家父長制とは、家族の中で最年長の男性がリーダーになる社会。または男性が支配し、自分たちの利益のために権力を行使する社会。Cambridge Dictiounaryより。私が苗字にこだわりを持つのには、10歳のときに、両親が結婚したことも影響していると思います。
再婚などではなく、私が生まれてから10歳になるまで実の両親が結婚していなかったという、ちょっとめずらしいパターンなのですが、当時の私は母の旧姓を気に入っていたこともあり…。
結婚したことで有無を言わせず子どもまで苗字を変えなければならないことに、不満を持っていました。母と自分の苗字が父の苗字になり、それを見て不満そうにしている主人公の絵。そんな幼少期の経験もあり、結婚や苗字に関して考えさせられる機会が多かった私にとって…。
「選択的」夫婦別姓に反対する人の意見には、納得できていません。主人公「別姓がいい人にとっての選択肢が増えるだけで、同姓にしたい人は今まで通りなのに…」それに、反対派の意見でしばしば「子どもが片方の親と異なる姓になることで、家族の一体感が失われる」というものを目にします。
そうした意見はかつての私の家族のようなあり方を想定してないと感じるし…そもそも世界を見れば、夫婦別姓が選べる国もたくさんあります。イギリス、スイス、韓国、オーストラリアなど様々な国旗のイラスト。参考、https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36.html 主人公「そういう国の人達は、家族の一体感を持ててないってこと…?」
私がこれから先、結婚を選ぶかどうか、そのときに選択的夫婦別姓が実現しているのか、それはまだわかりません。人生ゲームのように様々な選択肢の中で自分の駒を進めているようなイラスト。でも、どんな道を選ぶとしても…。
主人公の目の前にAの世界線とBの世界線が広がっているイラスト。Aには「子どものうちは大人の意見に従わざるを得ない」「結婚したら女性は男性の家に嫁ぐ」「女性は家族を支えるべき」という一本道しかないが、Bには「子どもも意見を持つ一人の人間として扱われる」から始まり、結婚する、結婚しない、同性婚、ふうふ同姓、別姓、子どもを持つ持たないを選べる、別居など、様々な選択肢がある。
Bの方を足取り軽く選ぶ主人公。選択肢の多い、こっちの道をもっと選びやすくなるといいなとあらためて思いました。主人公、振り返って「みなさんは未来にどんな選択肢があってほしいと思いますか?ぜひコメントで教えてくださいね」おわり。

【マンガで解説】現代まで続く家制度の名残って?「判子作りで感じた家父長制の話」から考える

みなさんは、「結婚して苗字が変わること」にモヤモヤを感じた経験はありますか?

今回の記事では、実印を作りに行った主人公が感じた違和感をきっかけに、「家」や「家族」と深く結びついた苗字のあり方について考えていきます。

「判子をつくりたいだけなのに……!」

そんな日常のひとコマから、私たちが無意識のうちに受け入れている“当たり前”に問いを投げかけてみたいと思います。

判子をつくりたいだけなのに…! こんなところにも家父長制

今回紹介するマンガでは、実印を作りに行った主人公が、思わぬところで家父長制を目の当たりにするところから物語が始まります。

家父長制とは、家族のなかで最年長の男性がリーダーとなる社会、または男性が支配し、自分たちの利益のために権力を行使する社会のことです。

この家父長制という支配のシステムには、社会の制度や秩序の基本を、男性が家長となり女性や子どもがそれに従う形の「家」という単位で考え、「個人」よりも優先させるという特徴があります。

男性優位を正当化する家父長的な価値観は、明治期の家制度をきっかけに日本社会に広く浸透していきました。そんな家制度は1947年、日本国憲法の施行によって廃止されましたが、それから80年近く経った今でも様々な形で私たちの暮らしに影響を与えています。

主人公が判子屋さんで耳にした以下のような “常識”も、家父長制の価値観が今なお根づいていることを示しています。

実印を作るとき…

  • 女性は結婚して苗字が変わるため、下の名前で作る
  • 家庭に入るという意味で/おしとやかさを演出するために女性は男性よりも小さめに作る

「家父長制」や「家制度」と聞くと、もう過去の話と思いがちですが、実は今も私たちの日常の中に色濃く影響を残しているのです。

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夫婦同姓を義務付ける国は日本だけ

今回のマンガの主人公は、10歳のときに実の両親が結婚したことで、姓が母方から父方に変わるという経験をしていました。自分の意思とは関係なく姓が変わってしまったことに、彼女は違和感を抱きます。

夫婦やその子どもが同じ姓を名乗るのは「当たり前」と思われがちですが、すべての夫婦に同じ姓を名乗るよう法律で義務づけている国は、すべての夫婦に同じ姓を名乗るよう法律で義務づけている国は、世界で日本だけです。さらに日本では、約95%の夫婦が夫の姓を選んでいます(2023年 厚生労働省「人口動態調査」)。

この状況について国連の女性差別撤廃委員会は、これまでに3度、見直しを求める勧告を出しています。それでも、希望する夫婦に対して結婚前の姓を名乗ることを認める「選択的夫婦別姓制度」はいまだ実現していません。

こうした夫婦同姓の義務付けも、明治時代の「家制度」に由来すると言われています。

家制度のもとでは、「家」が社会の最小単位とされ、戸籍も家ごとに管理されていました。結婚は家と家との結びつきであり、妻は夫の家に入り、夫の戸籍に入るのが原則。姓を変えるのも、たいていは妻のほうでした。

こうした背景から、「夫の姓を名乗ること」が当然とされ、家を継ぐ男性を中心に据えた家父長制的な考え方が社会に根深く残ることになったのです。

1947年の日本国憲法の施行により家制度は廃止されましたが、夫婦同姓の慣習は今もなお残されたままです。

“家族の一体感” は苗字で決まる?

現在も、国会では選択的夫婦別姓を巡る議論が続いています。今年2025年の国会で野党側が提出した3つの法案は、いずれも可決の見通しが立たないことから採決が見送られ、継続審議となる方向で調整が進められています。

マンガでも触れられていたように、選択的夫婦別姓制度に反対する意見としてよく挙げられるのが「夫婦別姓を認めれば家族の一体感がなくなる」というものです。

しかし、本当に苗字が家族をつなぎ止めているのでしょうか?

仮に別々の姓を名乗ることが家族関係に悪影響を及ぼすのだとしたら、日本のすべての既婚者の半分、つまり結婚時に改姓した人たちが「結婚を機に実家と不仲になっている」ということになってしまいます。これは現実的ではないですよね。

また「親と姓が違うことで疎外される子どもが出てくるかもしれない」という懸念から「夫婦別姓は子の福祉によくない」とする意見もしばしば聞かれますが、今回のマンガの主人公のように、子ども自身が夫婦同姓の強制に違和感を抱いている場合もあります。

本人の意思を確認せず「子どもというものはきっとこう感じるはずだ」と決めつけることは、すべての子どもが持つ「自己の意見を表明し、それを尊重される」という権利を軽視しているとも言えます(子どもの権利条約 第12条)。

そもそも「姓が違うと仲間外れにされる」「疎外感を感じる」という不安の背景にある、姓が違うことに対する偏見やスティグマにこそ、まず対処すべきではないでしょうか。

夫婦別姓を認め、夫婦や親子の姓が違うことが法律で認められ「当たり前」になることは、むしろそのような偏見をなくしていく第一歩になるはずです。

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さいごに

結婚したら同じ姓を名乗るのが「当たり前」。そんな価値観の背景には、明治時代の家制度と、それに由来する家父長制的な考え方があります。

廃止されたはずの家制度は、夫婦同姓の義務や社会的な慣習という形で、いまだに私たちの暮らしの中に根強く残っています。

実印の作り方ひとつとっても、無意識のうちに“そうあるべき”とされることの多さに気づかされます。

「家族とは何なのか」
「姓を名乗るということに、どんな意味が込められているのか」

制度が作られた時代の価値観や背景を見つめ直しながら、今の時代にふさわしい選択肢やあり方を考えていくことが、これからの社会に必要なのではないでしょうか。