個性を大切にしてると「大人になりきれてない」と言われる私たち
みなさんは「コンプレックス広告」を見かけた経験がありますか?
「ムダ毛の処理をしないから」
「痩せていないから」
「肌が荒れているから」
「癖っ毛だから」
というように、容姿を理由に恋人に振られたり、異性に拒絶される女性が主人公の広告は、インターネット上に溢れていますよね。
日本社会では、人の服装や振る舞いを「異性に好まれるかどうか」という基準で判断し、その基準から外れる人に生きづらさを感じさせることが、「当たり前」として広く受け入れられています。
「特定の見た目を手に入れなければ異性から好かれない!」と煽ってくるコンプレックス広告も、このような社会のあり方を長続きさせている原因のひとつであると言えるでしょう。
今回はマンガを通じ、人の見た目を制限する社会について、「異性に好かれるか」でジャッジを下すような傾向と、その背景にある「皆が異性婚をすべき」という規範に着目して考えていきます。
「異性に好かれるか」でジャッジする社会
冒頭でも触れた通り、私たちの暮らす社会には、誰かの容姿、特に女性の容姿を「異性に好まれるかどうか」という基準で判断する雰囲気が根強くあります。
見た目や振る舞いを取り上げて、「こんなんじゃお嫁に行けない」などと馬鹿にするような行為は、以前に比べると減ってきたようです。
でも、よくよく周りを見渡すと「異性愛の達成を目的とした容姿の管理」を無条件に美徳とするような価値観の刷り込みが、私たちの生活の中のさまざまな場面で行われていることがわかります。
たとえば冒頭で触れたような、美容関連のコンプレックス広告。
主人公は容姿を理由に異性から拒絶された末、友人に勧められた脱毛サロンやダイエット食品、美容グッズなどを活用して大変身を遂げ、最終的に”イケメン”にみそめられ、周囲を見返したところでストーリーは幕を閉じ、最後に商品の購入方法が大きく表示されます。
こういった広告は、
①周囲との比較
②欠陥の自覚、挫折感
③(購買による)一発逆転
④(彼氏をゲットすることによる)ハッピーエンド
というわかりやすいサクセスストーリーを提示し、「女性は異性愛を成功させるために、外見を磨くべき」というような考え方を刷り込む/強化することによって、女性たちを消費行動へと駆り立てているのです。
このように、女性をまなざす男性、つまり、女性の魅力を見た目に基づいてジャッジする男性を登場させることで括弧付きの「自己管理」を促すようなやり方は、広告業界において頻繁に使われています。
マーケティングの担当者や広告代理店などが「こういう広告を作れば売れるだろう」と思ってしまうということは、それほどにこの社会が異性愛中心主義的であり、男性の異性愛的な視線に権力が付与されている状態にあるということです。
そうして何気なく有害な描写が繰り返し用いられることで、異性愛中心主義を基盤にした「こうあるべき」が幾度となく強化されてきました。
しかし、そんな中でも、悪質なコンプレックス広告に反対する人々の声が、媒体側の基準を変えさせた例もあります。
コロナ禍真っ只中の2020年、change.orgを通じて立ち上げられたネット署名『【Youtube広告】YouTubeでよく見る体毛や体型などに関する卑下の広告、やめませんか?』をきっかけに、「コンプレックス広告」という言葉が広く認知されるようになり、さまざまなメディアで取り上げられるなど、社会問題として議論する土壌ができていったのです。(該当署名には現在、約5万もの署名が集まっています!)
このような注目の高まりを受け、Yahoo!は2020年の6月、コンプレックスを露骨に表現した広告を禁止する旨の公示に、次のような文章を記載しました。
人はそれぞれ多様な特徴を持っており、身体的な特徴もその一つです。その特徴は多様性であり、正しく理解することが大切です。一部の身体的特徴をコンプレックスであるとして表現することは、差別意識を温存、助長するものであり、決して許さ(れ)るべきものではないと考えています。そのため、この様な広告表現については、広告掲載基準に抵触すると判断し、今後該当する広告については広告掲載をお断りいたします。
(Yahoo! コンプレックスに関する表現の広告審査について より抜粋)
いつになったら広告による「こうあるべき」の再生産を断ち切ることができるのかはわかりません。それでも、このネット署名のように「もの言う消費者」として声を上げ続けることで、異性愛をめぐるコンプレックスを再生産し、またそれらを強化しながら消費を促す資本主義社会のあり方そのものに揺さぶりをかけることができるのです。
「結婚して一人前」という考え方
マンガでも触れられているように、「男が働いて女は家事育児」という家族のあり方が当たり前とされ、男女の賃金格差が今よりもっと酷かった頃、「女性らしく」振る舞うことで生活を支えてくれるパートナーを見つけるのは、女性のとってのひとつの「賢い」生き残り方とされていたのでしょう。
しかし、共働き世帯が増え、男女の賃金格差が改善すべき問題とみなされるようになってきた現代においても「お嫁に行くために、女性は男性に好かれることを目指すべき」「そう振る舞えない人は大人になりきれていない」という考え方は、根強く残っているようです。
振り返って見ると、私たちは妊娠の仕組みもよくわからない幼い頃から、異性との結婚を大人としての成熟や幸せの証明とみなし、「すべての人が結婚し、子どもをつくるべき」とする規範に晒されてきました。
たとえば、お金持ちの王子にみそめられ、結婚して幸せになるプリンセスや、恋愛が日常のほとんどを占め、最終回には必ず結婚エンドを迎える少女向けアニメやマンガ。
こういった物語に登場する未婚の大人の女性は、「継母」や「魔女」という風に、「ずる賢くて意地悪で、独り身の可哀想な悪役」として描かれる傾向にありました。
「皆が結婚して幸せになるべき」とみなす見方は、裏を返せば「いつまでも結婚できない人は何かがおかしい」という考え方でもあるのです。
このような考え方は、「男は一家を背負って立つべき」や「女性を『もの』にして、家庭を築いてこそ一人前」といったプレッシャーとして、男性の前にも立ちはだかります。
そして、「当たり前」とされるやり方通りに生きない人は「結婚できず取り残された可哀想な人」や「結婚できないおかしな人」と見做されてしまうのです。
このように、独身の人にとっての生きづらさの理由は「結婚ができないこと」にあるように思われがちです。でも、そもそもその根底にある「結婚できない=かわいそう」という決めつけこそが、さまざまな生き方が否定される原因となっているのではないでしょうか。
「わたしらしさ」は、わたしが決める
生まれた時に割り振られた性別に基づいて常に評価され、他者に気に入られるような振る舞いしか許されない生活なんて、窮屈です。
また、「個性的で何が悪い!」と主張するとき、同時に「『個性的である』とされるものを纏っていなくたっていいじゃないか」とも言いたくなります。
SNSが普及して、より一層自分と他者とを比較する機会が増えた今、「何者かであらねば」という焦燥感に悩まされている人も多いのではないでしょうか。
そういう中で、大衆的なファッションを「量産型」といじったり、いわゆる「モテる」とされる服装や振る舞いを「媚びている」「ぶりっ子」と嘲笑したりする風潮があります。
焦点を当てるべきは、特定の装いの良し悪しの決定ではなく、人の見た目について、第三者が異性愛中心主義的な考え方を押し付けながらとやかく言うこと、そういうことが当たり前とされてしまう雰囲気を改善することでしょう。
人の見た目について文句をつけたり、揶揄したりしてもよいという雰囲気をなくしていくことで、だれもが心地よく生きられる社会に繋げていくことができるはずです。
1人ひとりが、自分に一番しっくりくる状態ですごせ、またその状態や自己表現について自由に模索し、流動的でいられるような雰囲気が作られることを望みます。
参考:斎藤美奈子『紅一点論: アニメ・伝記・特撮のヒロイン像』2001年、筑摩書房
(文章:𠮷元咲)
パレットーク公式YouTube「あちゃこちゃらじお」では、ルッキズムや、コンプレックスを煽る広告の問題についてもお話ししています。